「教育大混乱」プロ教師の会 洋泉社新書 ① 2007年
今回は プロ教師の会による「教育大混乱」の1回目(1/3)の紹介です
プロ教師の会
宝島社から 教育問題についてのたくさんの本を出していたのは
もう20年くらい前になるでしょうか
プロ教師の会の方もすでに退職者が多いのではないでしょうか
いつも冷静な目で教育について語っていたプロ教師の会
今から5年ほど前に出された本ですが
的確に教育 教育の問題について語っています
「知識を学ぶ」派か「人間形成をする」派か
どちらの学力観をとるかによって 大きな違いが…
東井義雄さんの
「教科の論理」か「生活の論理」と似ています
今日紹介する中の言葉
「私は,教師が文科省や教育委員会の意のままに動く知的マリオネットであ
るとは思っていない。教師は,むしろ近代的な『智』を自ら体現しつつ行
政側(国家)と市民社会(親や子ども)との端境にあって,両者を調整しつつ
教育活動を行う自律的な知的主体だと考えている」
「文科省キャリアは,なかなか聴こうとしない教員たちを威圧,恫喝した」
教師のやりがいのひとつがここに表されています
大阪市長はこの文をどう読むでしょうか
教育問題は社会の問題 を実感させてくれる本です
勤務校は今日修了式
担任する子どもたちとの一年の締めくくりです
一日をゆっくり味わおうと思っています
☆「教育大混乱」プロ教師の会 洋泉社新書 ① 2007年

◇はじめに 学力低下の主因は「ゆとり教育」ではなく,「子ども・若者問題」にある
◎学力観に二派
①「知識を学ぶ」派
②「人間形成をする」派 →近代的個人を堅く信頼
1.「子どもが変わった」ことを認めない議論はすべて間違う - 諏訪哲二
○「子ども若者問題」の社会問題化
○1970年代の教師
A 体制順応派 - 通過点
B 組合派 - 平和で民主的な社会の形成
C 少数派 - 自立的な個人の形成
○20年近い歳月をロスさせた「子ども観」の見誤り
○1975年を境に日本は大きく変わった
1970年の「学園闘争」 - 消費社会 - 1980年代 「校内暴力」
○能力による差別から暴力が発生する
○1980年代の「校内暴力」が子どもの変容の走り
○学校や教師が子どもを育てられない時代になった
→ 社会や学校から自立した子どもの登場
↓
学校や教師が子どもたちを育てられる時代でなくなったからこそ,子ども
たち・若者たちは「こう」なった
2.「ゆとり・生きる」派の敗北と「学力向上」派の跳梁
○人間形成か学力形成か?
学力低下
1980年代中葉から変わりつつあった子ども(若者)たちの生きる姿勢や学
ぶ姿勢,自己意識などの構造的変化によってすでに引き起こされていた
2派
①「ゆとり・生きる」派は教育を「人間形成」に重点を置いて考える立場
②「学力向上」派は「学力形成」こそ教育だと考えている。
↑ ↓
文科省は人間形成に重き 個別的子どもというイメージは薄い
○教育空洞化で考えた文科省の「教育改革」プラン
= 文科省は学力観を変えようとした
文科省幹部 - 教育不全を起こしつつある中位~下位の生徒達の健全な育
成に力を注ごうとした
↑
「彼らを従来の学力観のように一律的な規準で裁断するのを
やめよう!」
○「ゆとり・生きる」教育の強行は後進国革命の典型である
文科キャリアは教師の主体性を無視して改革を強行した
|
「私は,教師が文科省や教育委員会の意のままに動く知的マリオネットであ
るとは思っていない。教師は,むしろ近代的な『智』を自ら体現しつつ行
政側(国家)と市民社会(親や子ども)との端境にあって,両者を調整しつつ
教育活動を行う自律的な知的主体だと考えている」
↓
↓
文科省キャリアは,なかなか聴こうとしない教員たちを威圧,恫喝した
寺脇研 - 教員を上から強引に動かすことに何ら罪の意識を感じていなかった
教師一人一人の主体性を一貫して無視した
○かくして「競争」と「効率化」の学校ばかりが望まれるようになった
3.「ゆとり教育」敗北後の小学校の実態を誰も知らない 鈴木一郎(1950生小学校長)
○学校での宿題は必要か
○学校の授業だけでは入試が心配
○当初から方向転換を背負ってスタートした「ゆとり教育」
○とどまることを知らない「保護者のニーズ」
4.蔭山先生はそんなにえらいのか 鈴木一郎
○ブームとなった「蔭山メソッド」
○同じ指導案でも個々の教師によって授業は違う
○誰でも向上できるとき,それでも向上しないなら…
○全ての親が学力向上を考えているわけではない…
○「望ましさ」ばかり際だつ「蔭山メソッド」の限界
プロ教師の会
宝島社から 教育問題についてのたくさんの本を出していたのは
もう20年くらい前になるでしょうか
プロ教師の会の方もすでに退職者が多いのではないでしょうか
いつも冷静な目で教育について語っていたプロ教師の会
今から5年ほど前に出された本ですが
的確に教育 教育の問題について語っています
「知識を学ぶ」派か「人間形成をする」派か
どちらの学力観をとるかによって 大きな違いが…
東井義雄さんの
「教科の論理」か「生活の論理」と似ています
今日紹介する中の言葉
「私は,教師が文科省や教育委員会の意のままに動く知的マリオネットであ
るとは思っていない。教師は,むしろ近代的な『智』を自ら体現しつつ行
政側(国家)と市民社会(親や子ども)との端境にあって,両者を調整しつつ
教育活動を行う自律的な知的主体だと考えている」
「文科省キャリアは,なかなか聴こうとしない教員たちを威圧,恫喝した」
教師のやりがいのひとつがここに表されています
大阪市長はこの文をどう読むでしょうか
教育問題は社会の問題 を実感させてくれる本です
勤務校は今日修了式
担任する子どもたちとの一年の締めくくりです
一日をゆっくり味わおうと思っています
☆「教育大混乱」プロ教師の会 洋泉社新書 ① 2007年
◇はじめに 学力低下の主因は「ゆとり教育」ではなく,「子ども・若者問題」にある
◎学力観に二派
①「知識を学ぶ」派
②「人間形成をする」派 →近代的個人を堅く信頼
1.「子どもが変わった」ことを認めない議論はすべて間違う - 諏訪哲二
○「子ども若者問題」の社会問題化
○1970年代の教師
A 体制順応派 - 通過点
B 組合派 - 平和で民主的な社会の形成
C 少数派 - 自立的な個人の形成
○20年近い歳月をロスさせた「子ども観」の見誤り
○1975年を境に日本は大きく変わった
1970年の「学園闘争」 - 消費社会 - 1980年代 「校内暴力」
○能力による差別から暴力が発生する
○1980年代の「校内暴力」が子どもの変容の走り
○学校や教師が子どもを育てられない時代になった
→ 社会や学校から自立した子どもの登場
↓
学校や教師が子どもたちを育てられる時代でなくなったからこそ,子ども
たち・若者たちは「こう」なった
2.「ゆとり・生きる」派の敗北と「学力向上」派の跳梁
○人間形成か学力形成か?
学力低下
1980年代中葉から変わりつつあった子ども(若者)たちの生きる姿勢や学
ぶ姿勢,自己意識などの構造的変化によってすでに引き起こされていた
2派
①「ゆとり・生きる」派は教育を「人間形成」に重点を置いて考える立場
②「学力向上」派は「学力形成」こそ教育だと考えている。
↑ ↓
文科省は人間形成に重き 個別的子どもというイメージは薄い
○教育空洞化で考えた文科省の「教育改革」プラン
= 文科省は学力観を変えようとした
文科省幹部 - 教育不全を起こしつつある中位~下位の生徒達の健全な育
成に力を注ごうとした
↑
「彼らを従来の学力観のように一律的な規準で裁断するのを
やめよう!」
○「ゆとり・生きる」教育の強行は後進国革命の典型である
文科キャリアは教師の主体性を無視して改革を強行した
|
「私は,教師が文科省や教育委員会の意のままに動く知的マリオネットであ
るとは思っていない。教師は,むしろ近代的な『智』を自ら体現しつつ行
政側(国家)と市民社会(親や子ども)との端境にあって,両者を調整しつつ
教育活動を行う自律的な知的主体だと考えている」
↓
↓
文科省キャリアは,なかなか聴こうとしない教員たちを威圧,恫喝した
寺脇研 - 教員を上から強引に動かすことに何ら罪の意識を感じていなかった
教師一人一人の主体性を一貫して無視した
○かくして「競争」と「効率化」の学校ばかりが望まれるようになった
3.「ゆとり教育」敗北後の小学校の実態を誰も知らない 鈴木一郎(1950生小学校長)
○学校での宿題は必要か
○学校の授業だけでは入試が心配
○当初から方向転換を背負ってスタートした「ゆとり教育」
○とどまることを知らない「保護者のニーズ」
4.蔭山先生はそんなにえらいのか 鈴木一郎
○ブームとなった「蔭山メソッド」
○同じ指導案でも個々の教師によって授業は違う
○誰でも向上できるとき,それでも向上しないなら…
○全ての親が学力向上を考えているわけではない…
○「望ましさ」ばかり際だつ「蔭山メソッド」の限界
この記事へのコメント
私は1主婦ですが、切実に今の教育について考えるものがあります。
昨年の震災から色々な事が私に「考える」力をつけてくれたと思います。特に今住む所は昔ながらで「流され、考えない、改善しない」大人が多いように思えてなりません。私は長野県で、中.高学び、文科省の教科書ではありませんでした。飛び抜けてはいっけないけれど、そこそこの教育がなされてもよいのでは?と考える方です。
やや過激な発言をするので、ごめんなさい。
とても興味をそそる本なので、機会を見つけて読みたいと思います。
なおこ
【YAMATO高校♪合唱部 「わが◆マイルストーン」2】
私の実体験からの考察結果は、
必要なのは「どちら【か】」なのではなく、
「どちら【も】」です。
それでも足りません。
必要なのは【全て】です。
詳論は、小説本編にて追々。
またのご来訪を待っております
教育の長野 ですね
プロ教師の会の考えは 最初の頃 過激だなと思っていましたが
次第に納得できるものになってきました
何かに追い立てられている社会
皆に余裕をなくしている社会になってしまっているのではないでしょうか
「勝ち抜くために」
「生き残るために」
こんな字が躍るような世の中を辛く感じます
ゆったり のんびりしていても幸せを感じる社会にするにはどうしたらよいのでしょう
プロ教師の会 かつての活気が感じられなくなったのは
確かに 現場から一歩離れたところからの意見のように思えます…
いつもご訪問ありがとうございます。
中学生の息子を持つ身ですので、教育に関しては非常に身近な問題です。
>学校や教師が子どもたちを育てられる時代でなくなった
それ以前に子供を育てられない家庭も増えてるような気がします。
(人のこと言える立場じゃないかもしれませんが・・)
学校での教師と保護者の会談でも、たいがい「問題のある子」の親って
まずその場に参加しません。でもクレームだけは人一倍。
つい最近ですが、その問題のある子の親が学校に乗り込んできて
クレームをつけてきましたが、先生はどちらかと言うと穏便にと言う感じ
それに対して業を煮やしたクラスメイト達が逆にその親をたしなめるという
ことが起きました。これを息子から聞いた私、茫然としてしまいました。
取りとめもないこと長々とすみません。
子どもはだれのものか
もちろん子ども自身のものですが
親のものか社会のものかと しばしば問われます
わたいしも二人の子の親ですが
つい自分のものと思い込んでしまうことがあります
押しつけてしまい後で反省してしまうこともあります
答えはないにしても 時々自分に問うことも大切なのではないかと思います
自分の子どものことだけ考えればよいのか
子どもたちは冷静に保護者を観ているように思います