山折哲雄さんはこんなことを ⑥-「死を視ること帰するがごとし」講談社 1995年(1) /「心いっぱいに育て」和田重良 くだかけ舎 1991年 ①【再掲載 2016.5】
今日は7月5日、金曜日です。
今回は、「山折哲雄さんはこんなことを」6回目、
「死を視ること帰するがごとし」の紹介 1回目です。
出版社の案内には、
「死がこわくなくなり、気持が楽になる『心の書』。死は『別れ無にあ
らず。自然のふところへ還る、出発のときである。
- 死後や来世に、もうひとつの生があることを…日本人は忘れて
いないか -
自分の遺体がカマで焼かれて、骨になっている。やがて粉々にくだか
れ、ごくわずかな肉親や知人によって遠い海の彼方に、あるいは山奥
の樹木の根元にまかれている。そういう光景を想像してみよう。私の
骨灰をまいている人びとが、たんに別れを告げているようには、とて
もみえないのである。むしろ私の最後の大切なものを、自然のふとこ
ろに返しているようにみえる。私の骨灰をもともとあった場所にそっ
と戻しているように思うのである。まかれている当の私にしても、山
や海の自然のなかに融けこんで、生きのこっている人びとと地つづき
のところに横たわっている感じなのだ。水の流れにそって自分を送っ
てくれた人びとの足元に漂っているといってもよい。 - 本書より」
とあります。
今回紹介分から強く印象に残った言葉は…
・「食べる物が地上から失せたとき
①他の人間を食べること と ②自分を食べる方法 絶食・断食」
・「海辺に育った日蓮は霊山浄土、山に囲まれた盆地に育った親鸞は海
上浄土を」
・「輪廻転生を信じた『近代』以前の人々」
・「人生は紙おむつから紙おむつ」
もう一つ、再掲載になりますが、和田重良さんの
「心いっぱいに育て」①を載せます。
☆山折哲雄さんはこんなことを ⑥-「死を視ること帰するがごとし」講談社 1995年(1)

◇環境問題の行く末
食べる物が地上から失せたとき
① 他の人間を食べること
② 自分を食べる方法 絶食・断食
断食の果てに恍惚忘我が
◇山へ帰る日蓮・海へ帰る親鸞
海辺に育った日蓮は
- 霊山浄土
山に囲まれた盆地に育った親鸞は
- 海上浄土
◇臨死体験
臨死体験は現実体験か脳内体験か?
輪廻転生を信じた「近代」以前の人々
◇告知
好きになれない言葉 託宣(たくせん)
告発-告知-告別
~ 医学的なものから哲学的なものへ
◇年々歳々「半身棺桶」
山田風太郎「半身棺桶」
人生は紙おむつから紙おむつ
◇究極の茶の湯
千利休 最後の茶の湯
「茶の十徳」
杉浦明平「最後の晩餐」村田喜代子「蕨夜行」
餓死の内容は
◇「食人」と「絶食」「死」
絶食の果ての恍惚と忘我
葬儀
= 涅槃の舞台
別れではなく自然の懐に帰っていく
別れの儀式から涅槃の儀式へ
告別式から自然葬へ
◇灯火が消える
神代七代
独神と成りまして身を隠したまひき
= 神は死なず ただ消え去るのみ
涅槃「ニルバーナ」
= 灯が消える
~ 半眼(奥行きのある世界)
◇葬式パフォーマンス
ゴンドラ葬
霊肉二元論
チベット ラサ 鳥葬
◇室生寺
女人高野山
- 真言密教
◇気
生命 エネルギー
◇鎮め→刺激
香 線香・香 ←→ 香水
☆「心いっぱいに育て」和田重良 くだかけ舎 1991年 ①【再掲載 2016.5】

◇はじめに
神奈川県山北町
「教育意識が生活を潰している」
よい生活を犠牲にしてのいい暮らし
生活に必要なのは「工夫と創造」
「くだかけ大学校」の構想
農作業
-「人生科」正座
同行教育
- 伊藤隆二 和田重正 情に沿って生きる
「よくありたいという思い」
◎「よくありたい」を求めて生きる
◇結果はどこに 一心に生きる
焦らなくても
本物の楽しい人生を歩むコツ
自分で生活を創造し本物の人生を
力いっぱいやることが一番幸せ
自然の情
K君とJ君
「一心療」 = 疑いをもたない
受け取り合っていく教育
手放しで生きる
表裏、本音と建て前
一生懸命やれなくて損しているのは自分自身
◎ 渋々でも泣きながらもやりさえすればそのやった分だけ成
長している
人間のエネルギー
◎ 使うと、使った分の1.5倍ずつ強くなり、使わないとどん
どん放電されてしまう
◇あわてない、先取りしない
やる気のない子と付き合う
親の先取りがやる気を奪う
= やる気とか欲求が起こる前に親が何か設定してやらせようと
すると拒絶反応を示す
→ 何もしない
やる気があれば外さない
自分の実力が発揮できない子は気の利かない子
自分の実力が十分発揮できる子は気の利く子
実力がある子は、ここと言うとき、チャンスが巡ってきた
とき、さっとやれる
実力のない子はここというときだけ休む
= 受け身姿勢
本気で勉強させたいと思ったら何もしない
◇言い訳をしない
うまいことをねらわない
求めに応じて生きる
今回は、「山折哲雄さんはこんなことを」6回目、
「死を視ること帰するがごとし」の紹介 1回目です。
出版社の案内には、
「死がこわくなくなり、気持が楽になる『心の書』。死は『別れ無にあ
らず。自然のふところへ還る、出発のときである。
- 死後や来世に、もうひとつの生があることを…日本人は忘れて
いないか -
自分の遺体がカマで焼かれて、骨になっている。やがて粉々にくだか
れ、ごくわずかな肉親や知人によって遠い海の彼方に、あるいは山奥
の樹木の根元にまかれている。そういう光景を想像してみよう。私の
骨灰をまいている人びとが、たんに別れを告げているようには、とて
もみえないのである。むしろ私の最後の大切なものを、自然のふとこ
ろに返しているようにみえる。私の骨灰をもともとあった場所にそっ
と戻しているように思うのである。まかれている当の私にしても、山
や海の自然のなかに融けこんで、生きのこっている人びとと地つづき
のところに横たわっている感じなのだ。水の流れにそって自分を送っ
てくれた人びとの足元に漂っているといってもよい。 - 本書より」
とあります。
今回紹介分から強く印象に残った言葉は…
・「食べる物が地上から失せたとき
①他の人間を食べること と ②自分を食べる方法 絶食・断食」
・「海辺に育った日蓮は霊山浄土、山に囲まれた盆地に育った親鸞は海
上浄土を」
・「輪廻転生を信じた『近代』以前の人々」
・「人生は紙おむつから紙おむつ」
もう一つ、再掲載になりますが、和田重良さんの
「心いっぱいに育て」①を載せます。
☆山折哲雄さんはこんなことを ⑥-「死を視ること帰するがごとし」講談社 1995年(1)

◇環境問題の行く末
食べる物が地上から失せたとき
① 他の人間を食べること
② 自分を食べる方法 絶食・断食
断食の果てに恍惚忘我が
◇山へ帰る日蓮・海へ帰る親鸞
海辺に育った日蓮は
- 霊山浄土
山に囲まれた盆地に育った親鸞は
- 海上浄土
◇臨死体験
臨死体験は現実体験か脳内体験か?
輪廻転生を信じた「近代」以前の人々
◇告知
好きになれない言葉 託宣(たくせん)
告発-告知-告別
~ 医学的なものから哲学的なものへ
◇年々歳々「半身棺桶」
山田風太郎「半身棺桶」
人生は紙おむつから紙おむつ
◇究極の茶の湯
千利休 最後の茶の湯
「茶の十徳」
杉浦明平「最後の晩餐」村田喜代子「蕨夜行」
餓死の内容は
◇「食人」と「絶食」「死」
絶食の果ての恍惚と忘我
葬儀
= 涅槃の舞台
別れではなく自然の懐に帰っていく
別れの儀式から涅槃の儀式へ
告別式から自然葬へ
◇灯火が消える
神代七代
独神と成りまして身を隠したまひき
= 神は死なず ただ消え去るのみ
涅槃「ニルバーナ」
= 灯が消える
~ 半眼(奥行きのある世界)
◇葬式パフォーマンス
ゴンドラ葬
霊肉二元論
チベット ラサ 鳥葬
◇室生寺
女人高野山
- 真言密教
◇気
生命 エネルギー
◇鎮め→刺激
香 線香・香 ←→ 香水
☆「心いっぱいに育て」和田重良 くだかけ舎 1991年 ①【再掲載 2016.5】

◇はじめに
神奈川県山北町
「教育意識が生活を潰している」
よい生活を犠牲にしてのいい暮らし
生活に必要なのは「工夫と創造」
「くだかけ大学校」の構想
農作業
-「人生科」正座
同行教育
- 伊藤隆二 和田重正 情に沿って生きる
「よくありたいという思い」
◎「よくありたい」を求めて生きる
◇結果はどこに 一心に生きる
焦らなくても
本物の楽しい人生を歩むコツ
自分で生活を創造し本物の人生を
力いっぱいやることが一番幸せ
自然の情
K君とJ君
「一心療」 = 疑いをもたない
受け取り合っていく教育
手放しで生きる
表裏、本音と建て前
一生懸命やれなくて損しているのは自分自身
◎ 渋々でも泣きながらもやりさえすればそのやった分だけ成
長している
人間のエネルギー
◎ 使うと、使った分の1.5倍ずつ強くなり、使わないとどん
どん放電されてしまう
◇あわてない、先取りしない
やる気のない子と付き合う
親の先取りがやる気を奪う
= やる気とか欲求が起こる前に親が何か設定してやらせようと
すると拒絶反応を示す
→ 何もしない
やる気があれば外さない
自分の実力が発揮できない子は気の利かない子
自分の実力が十分発揮できる子は気の利く子
実力がある子は、ここと言うとき、チャンスが巡ってきた
とき、さっとやれる
実力のない子はここというときだけ休む
= 受け身姿勢
本気で勉強させたいと思ったら何もしない
◇言い訳をしない
うまいことをねらわない
求めに応じて生きる
この記事へのコメント
まったくその通りです。生まれて人の世話になり、死ぬときも人の世話になる。どんなに威張っている人も最後は弱者となる。それがわかっていない人が多いように思います。
世話をしてもらうことから始まって、世話をしてもらうことで終わる、それを頭のどこかにしまっておきます。