書評『朝日ブックコム 本の達人』より - 「リターンマッチ」[著]後藤正治 1994年 [評者]最相葉月(ノンフィクションライター) [掲載] 2012年11月16日 /「日本史の授業2 天皇論」井沢元彦 PHP 2012年 ②【再掲載 2017.7】
今日は6月7日、土曜日です。
今回は、最相葉月さんの
書評「リターンマッチ」を載せます。
この書評を見て、「リターンマッチ」を読みました。
人の体温を強く感じる、読みながら身体が熱くなる作品でした。
もう一つ、再掲載になりますが、井沢元彦さんの
「日本史の授業2 天皇論」②を載せます。
井沢ワールドを楽しみました。
☆書評『朝日ブックコム 本の達人』より - 「リターンマッチ」[著]後藤正治 1994年 [評者]最相葉月(ノンフィクションライター) [掲載] 2012年11月16日

◇定時制高校ボクシング部の青春に寄り添う
後藤正治のノンフィクション作品は、大きく二つに分類される。
一つは、流しの歌手や選挙参謀、清貧の画家、野球の代打者やスカウ
トなど、ふだんはあまり表舞台に登場しない無名の人々を描いた人物モ
ノ。
もう一つは、人工心臓の開発から、脳死移植、生体肝移植まで、最先
端の移植医療の歩みを追った医療モノである。
同姓同名の別人の作家がいると誤解されたこともあるそうだが、後藤
の世界はこの両輪によって形作られている。
なぜ、これほど異なるテーマを扱うのかと本人に訊(たず)ねてみた
ことがある。
正確な表現ではないが、後藤は、たしかに分裂気味だよねと苦笑いし
ながら、人の生死を左右する医療の現場に通い詰めていると、時折、無
性に人の体温にふれたくなるのだと話してくれた。
人生も半ばを過ぎて、私自身もそんな気持ちが少しだけわかり始めた
ような気がしている。
大宅賞受賞作『リターンマッチ』を十年ぶりに読み返してみての感想
である。
舞台は、兵庫県西宮市にある定時制高校、市立西宮西高校。
ボクシング部を創設した英語教師、脇浜義明と部員たちに密着した約
3年間の記録である。
脇浜は、「スペイン風といおうか、深みのある浅黒い顔立ちに口髭が
似合っている。愛想はない。頑固一徹な中年男」。
新聞記事をきっかけに西高に出向いた後藤は、脇浜と付き合ううちに、
その内に秘めるものの奥深さに惹(ひ)かれていく。
脇浜は、神戸の繁華街、新開地に生まれ育つ。母子家庭のため、中学
時代から働きに出て一家を支えた。
川崎重工の養成工、牛乳屋、港湾労働者など、さまざまな職を経験す
る。
定時制高校に入って初めて活字に親しむようになり、神戸市立外国語
大学の二部を出て英語教師となる。
脇浜の人となりを示すエピソードがある。
学生運動に挫折した男女を描いた柴田翔のベストセラー『されどわれ
らが日々-』を読み、クラスの討論会でこう発言したという。
「こんな弱い世界がなんで美しいとされるのか。党(共産党)の矛盾を
もってなんで自分の悩みとしてしまうのか。まったくもってあほらし
い話ではないか」
同窓生には右翼学生と思われていたらしいが、西高の教師になってか
らは組合活動に力を注ぎ、1970年代には、在日韓国・朝鮮人や同和地
区出身者も多い定時制高校生の就職差別撤廃に熱心に取り組んだ。
ボクシング部が発足したのは、1984年春のこと。
ただし、最初から乗り気だったわけではない。
バブル前夜、受験戦争はいよいよ激しく、就職は売り手市場。
定時制高校生もえり好みさえしなければ、仕事を見つけるのはむずか
しくなくなっていた。
生徒気質も70年代とはずいぶん様変わりした。
「成績は悪いが、ケンカには強い」だったのが、「成績も悪く、ケンカ
も弱い」
に。
人の話を黙って聞けない。
目を合わせて会話できない。
反発しないはいいが、無反応。
生徒たちの変化に戸惑う脇浜は、だから、在日韓国人の兄弟二人がボ
クシング部をつくりたいと相談にやってきたときも、自分が高校時代に
打ち込んだあの過酷なスポーツに、今の若者が耐えられるのか疑問だっ
たのである。
そんな脇浜をいつのまにかボクシング部にのめり込ませていたのは、
第一期生の若者たちだった。
母子家庭、父子家庭、事故で身内を亡くした者もいる。
みんなそれぞれ「わけあり」だ。
昼間は働き、夜は授業を終えると午後11時まで練習である。
そのうち彼らが変わり始めた。
挨拶(あいさつ)できなかった生徒が挨拶する。
授業に遅刻しなくなる。
活気が出て、表情も明るい。
インターハイで活躍する選手も現れ始めた。
周囲はそんな変化を喜んだが、脇浜は素直に受けとめようとしなかっ
た。
肉体同士ぶつかり合って、汗をかく。
信じられるのは、そんな時間を通して得られるものだけだったからだ。
それは、強くなれば他者に優しくなれるということ。
自分が荒(すさ)んでいるから他者に当たる。
自分が弱いが故により弱いものを苛(いじ)める。
〈その構造こそ、脇浜が半生を賭けて闘ってきたもの〉だ。
ゴンタクレに正道になることを求めてはいない。
〈ゴンタクレならまっとうなゴンタクレになれ〉。
それが脇浜の願いだった。
後藤が西高に通い始めたのは、90年春。
週に一度、手作りのリングのそばに立ち、練習を見守った。
概して、言葉数の少ない若者たちである。
インタビューというより、近所のボクシング好きのオッチャンが世間
話をするように、少しずつ彼らに声をかけ、互いの距離を縮めていった。
練習が終わると、脇浜やコーチたちと焼き肉屋に行き、卒業生の思い
出話を聞く。
風呂で話し込むこともある。
脇浜は、敗れても悔しさがうかがえない最近の部員たちを嘆き、
「このくそジジイと思ってきよるような奴(やつ)がおらんようになった」
とつぶやいた。
翌年、20人の新入部員のうち残ったのはたった1人。
脇浜が目にかけ、後藤も期待していた3人の上級生たちも示し合わせ
たように姿を見せなくなっていた。
創部以来の「ドン底」といっていい年、脇浜は後藤に弱音を吐いた。
「何年たっても、同じことを繰り返して、同じように裏切られて、アホ
ウなことしてますわ」
同年代の若者たちはバイクに乗り、酒を呑(の)み、恋人と遊んでい
る。
遅くまで練習するストイックな日々から目を反らした瞬間、緊張の糸
がぷつりと切れることもあるだろう。
取材は個々の部員の家庭事情には踏みこんでいないが、脇浜には、彼
らが何に悩み、何に苦しんでいるか、手に取るようにわかっているよう
だった。
誰かに責任を押しつけ、自分の意志の弱さを直視できない。
それは、かつての自分自身だったからだ。
それでも、一度はボクシングを楽しいと実感した者たちである。
あばら骨にひびが入っても全身でボディー打ちを受けとめる脇浜の必
死な姿を見守ってきた後藤は、生徒の自宅を訪ねて置き手紙を残したり、
校内で姿を見つけると声をかけて食堂に誘ってみたりして、なんとか彼
らの真意を探ろうとした。
そんなある日、将来を期待されながらも彼女ができたといって姿を消
したある生徒が、目に涙をためながら後藤にいった。
「脇浜先生を恨んでなんかいない。いい人だっていうことはわかってる。
わかってるんよ。だから、卒業前にね、行く。ありがとうございまし
たっていうから。……先生は強い。みんな、先生みたいに強くない。強
くないんよ-」
授業なんて出なくていいからボクシングやれ-。
そうまでして、勝つ喜びと、敗北を糧に新たに踏み出す強さを教えよ
うとした脇浜の思いが空回りしている。
部員たちに去られた脇浜は深く傷ついていたが、部を去った彼らもま
た、痛みを抱えていたのである。
後藤が会った部員たちは、70年代半ば生まれ。のちにIT起業家や
ITエンジニアが輩出する「ナナロク世代」である。
脇浜の指導法が時代からずれていくのは、もはや、致し方のないこと
だろう。
教師も同様だ。
脇浜の周りには、脇浜曰(いわ)く、「生徒の個性に応じた多様性あ
る教育とかぬか」し、教育心理学を掲げながら、生硬な言葉で公式論を
ぶつ若い教師たちが増えていた。
時代は確実に変わり始めていた。
では、後藤は脇浜に仮託し、かつての「金八先生」のような体当たり
指導の復活を望んだのだろうか。
原稿を待つ編集者の催促を背に受けながら、あともう少し、あともう
少しと取材を続け、西高が3人の部員を送り込んだ全国大会にまで同行
した。
それは、言葉ではなく裸でぶつかり合う「今の世には希(まれ)な場
所」へのノスタルジーだったのだろうか。
実際のところ、後藤自身、この変化をどう受けとめればいいのかわか
らず、脇浜の指導法に対しても、〈過剰な評価は滑稽であるし、過小な
評価もまた誤りであろう〉と記している。若い教師たちについても批判
はせず、いずれ彼らも現実の中で鍛えられて成長していくのだろうと理
解を示している。
ああ、そう考えるよりほかはないですよね、と私は思う。
時代の伴走者として、移りゆく景色を見つめ、人々の内面に寄り添っ
てきたノンフィクション作家は、抗(あらが)うことのできない時間の
流れの中に両足を踏ん張って立ち、それでも不変と信じるものだけを両
手ですくい上げることしかできないのである。
脇浜のもとからは、その後、世界チャンピオンも誕生した。
定年退職した今も、熱血先生を慕う卒業生は多いと聞く。
ただ、そんな交わりをもてずにすれ違っていった者たちにとっても、
脇浜との出会いはなんらかの〈契機〉となり、なにかを胸に刻んだこと
だろう。
人と人の関係に普遍的で確かなもの、時の洗礼を受けても変わらない
ものがある。
後藤はこれを灰の中の火種にたとえ、次のように書いた。
<脇浜が生徒たちに残したものは、小さな《埋み火》ではなかったか。
いま振り返ってそう思う>(文庫版あとがき)。
後藤が脇浜たちを取材したのは、40代後半の3年間だった。
それから20年を経た今、当時の後藤とほぼ同じ年齢になった私の目
に、西高ボクシング部の物語はあまりに切なく愛しく映った。
これを人は、「青春」と呼んできたのだろう。
私たちがつくる未来がこれからも敗者復活を認める社会である限り、
本書はいつまでも輝きを保ち続けるだろう。
☆「日本史の授業2 天皇論」井沢元彦 PHP 2012年 ②【再掲載 2017.7】

[出版社の案内]
天皇の魂はなぜ復活してはいけないのか?
徳川家康はなぜ日光東照宮を築いたのか?
歴史 の真実を知る12講義。
冴え渡る井沢史観で天皇と歴史の謎を解き明かす。
◎テーマ3 天皇陵から分かる日本人の死生観
□日本古代史の謎がなかなか解けない理由
宮内庁の反対
→ 文化財か天皇家の私物か?
「陵墓参考地」
→ 宮内庁の自信のなさ
箸墓古墳も同
□天皇陵として正しいのは約50のうち3つのみ?
□世界でも珍しい墓誌のない墓
□天皇の魂は復活してはいけない
人間は死んだら黄泉の国へ
ピラミッドは王様の魂を再生させる装置
□なぜ日本人は死後の復活を恐れたのか
「怨霊信仰」
- 成功すると「御霊」いい神さまに
仏教
= いかにして仏になるか
小乗仏教
→ 上座部仏教
□成仏できないときは怨霊となる
仏教 ~ 怨霊鎮魂の一つの手段
□家康が仕掛けた洗脳
「銭は卑しい」観
本能寺の変
→ 朱子学(君主に背くことは絶対悪)
□家康が恐れたのは天皇の怨霊
松平 → 徳川
徳川は新田氏の支流の末裔だったから
日本では、外国ではあり得ない朝幕併存の方へ導いたのも実は怨霊
信仰
天皇という最も高貴な存在を滅ぼせば間違いなく巨大な怨霊を生む
◇朝幕併存
= 二権分立の謎を解く
◎テーマ4 天皇と藤原氏の争いが武士を誕生させた
□「武士」は中国にはない
天皇家と藤原氏の双方がともに武力を手放してしまった
夷(えびす)
軍団 → 征夷大将軍
□武力を放棄してしまった天皇家と藤原家
二代将軍・坂上田村麻呂(貴族の一人 一役職)
北海道を征服しなかったのは稲作ができなかったから
外敵がいなくなった時点で軍隊そのものをなくしてしまった
(ケガレを嫌う)
□藤原氏が考え出した脱税システム 土地所有権
荘園は藤原氏が考えた脱税システム
放棄口分田
→ 自分の所有地に
□映画「羅生門」で分かる
① 国庫には首都の正門を修理するお金がない
② 警察機能が働いていない
行政組織上は国軍は存在しているのに、実態としての軍隊
がない
□「平和になれば軍隊は必要ない」は大きな過ちとなる
□平安時代中期は無法地帯
ケガレ思想から兵部省・刑部省には希望者無し
→ 藤原氏は「検非違使」をつくる 令里の行
下級官でもなれる
□藤原氏に敗れた貴族は国司とって権力を握った
出世が望めない中級貴族にとってとは国司はおいしい仕事
4~6年で充分な財産(ワイロ合戦)
□藤原氏に対抗する天皇家の秘策
藤原氏は「関白」地位を作る
準皇族扱い
- 天皇の地位を奪った
→ 「五摂家」近衛・鷹司・九条・二条・一条
天皇は自分の息子や孫をわざと臣下に落とす
「臣籍降下」
源 平 ~ 姓を与えた
◎ 天皇は藤原氏に対抗するために、皇族の男子を臣籍降下させて
大臣に任命した
→ 策は当たり、源氏は一時期、藤原氏のライバルとして政権
を争った
しかし、破れた → 力落として
□武装農民が大量に発生した理由とは?
中央での出世の望みが絶たれた中流貴族が地方に土着し、財産を守
るため武技を磨いた結果誕生したのが武士
→ やがて集団化 武装集団+生産集団
当時の国有地は1/100
天皇まで荘園をもつようになった
今回は、最相葉月さんの
書評「リターンマッチ」を載せます。
この書評を見て、「リターンマッチ」を読みました。
人の体温を強く感じる、読みながら身体が熱くなる作品でした。
もう一つ、再掲載になりますが、井沢元彦さんの
「日本史の授業2 天皇論」②を載せます。
井沢ワールドを楽しみました。
☆書評『朝日ブックコム 本の達人』より - 「リターンマッチ」[著]後藤正治 1994年 [評者]最相葉月(ノンフィクションライター) [掲載] 2012年11月16日

◇定時制高校ボクシング部の青春に寄り添う
後藤正治のノンフィクション作品は、大きく二つに分類される。
一つは、流しの歌手や選挙参謀、清貧の画家、野球の代打者やスカウ
トなど、ふだんはあまり表舞台に登場しない無名の人々を描いた人物モ
ノ。
もう一つは、人工心臓の開発から、脳死移植、生体肝移植まで、最先
端の移植医療の歩みを追った医療モノである。
同姓同名の別人の作家がいると誤解されたこともあるそうだが、後藤
の世界はこの両輪によって形作られている。
なぜ、これほど異なるテーマを扱うのかと本人に訊(たず)ねてみた
ことがある。
正確な表現ではないが、後藤は、たしかに分裂気味だよねと苦笑いし
ながら、人の生死を左右する医療の現場に通い詰めていると、時折、無
性に人の体温にふれたくなるのだと話してくれた。
人生も半ばを過ぎて、私自身もそんな気持ちが少しだけわかり始めた
ような気がしている。
大宅賞受賞作『リターンマッチ』を十年ぶりに読み返してみての感想
である。
舞台は、兵庫県西宮市にある定時制高校、市立西宮西高校。
ボクシング部を創設した英語教師、脇浜義明と部員たちに密着した約
3年間の記録である。
脇浜は、「スペイン風といおうか、深みのある浅黒い顔立ちに口髭が
似合っている。愛想はない。頑固一徹な中年男」。
新聞記事をきっかけに西高に出向いた後藤は、脇浜と付き合ううちに、
その内に秘めるものの奥深さに惹(ひ)かれていく。
脇浜は、神戸の繁華街、新開地に生まれ育つ。母子家庭のため、中学
時代から働きに出て一家を支えた。
川崎重工の養成工、牛乳屋、港湾労働者など、さまざまな職を経験す
る。
定時制高校に入って初めて活字に親しむようになり、神戸市立外国語
大学の二部を出て英語教師となる。
脇浜の人となりを示すエピソードがある。
学生運動に挫折した男女を描いた柴田翔のベストセラー『されどわれ
らが日々-』を読み、クラスの討論会でこう発言したという。
「こんな弱い世界がなんで美しいとされるのか。党(共産党)の矛盾を
もってなんで自分の悩みとしてしまうのか。まったくもってあほらし
い話ではないか」
同窓生には右翼学生と思われていたらしいが、西高の教師になってか
らは組合活動に力を注ぎ、1970年代には、在日韓国・朝鮮人や同和地
区出身者も多い定時制高校生の就職差別撤廃に熱心に取り組んだ。
ボクシング部が発足したのは、1984年春のこと。
ただし、最初から乗り気だったわけではない。
バブル前夜、受験戦争はいよいよ激しく、就職は売り手市場。
定時制高校生もえり好みさえしなければ、仕事を見つけるのはむずか
しくなくなっていた。
生徒気質も70年代とはずいぶん様変わりした。
「成績は悪いが、ケンカには強い」だったのが、「成績も悪く、ケンカ
も弱い」
に。
人の話を黙って聞けない。
目を合わせて会話できない。
反発しないはいいが、無反応。
生徒たちの変化に戸惑う脇浜は、だから、在日韓国人の兄弟二人がボ
クシング部をつくりたいと相談にやってきたときも、自分が高校時代に
打ち込んだあの過酷なスポーツに、今の若者が耐えられるのか疑問だっ
たのである。
そんな脇浜をいつのまにかボクシング部にのめり込ませていたのは、
第一期生の若者たちだった。
母子家庭、父子家庭、事故で身内を亡くした者もいる。
みんなそれぞれ「わけあり」だ。
昼間は働き、夜は授業を終えると午後11時まで練習である。
そのうち彼らが変わり始めた。
挨拶(あいさつ)できなかった生徒が挨拶する。
授業に遅刻しなくなる。
活気が出て、表情も明るい。
インターハイで活躍する選手も現れ始めた。
周囲はそんな変化を喜んだが、脇浜は素直に受けとめようとしなかっ
た。
肉体同士ぶつかり合って、汗をかく。
信じられるのは、そんな時間を通して得られるものだけだったからだ。
それは、強くなれば他者に優しくなれるということ。
自分が荒(すさ)んでいるから他者に当たる。
自分が弱いが故により弱いものを苛(いじ)める。
〈その構造こそ、脇浜が半生を賭けて闘ってきたもの〉だ。
ゴンタクレに正道になることを求めてはいない。
〈ゴンタクレならまっとうなゴンタクレになれ〉。
それが脇浜の願いだった。
後藤が西高に通い始めたのは、90年春。
週に一度、手作りのリングのそばに立ち、練習を見守った。
概して、言葉数の少ない若者たちである。
インタビューというより、近所のボクシング好きのオッチャンが世間
話をするように、少しずつ彼らに声をかけ、互いの距離を縮めていった。
練習が終わると、脇浜やコーチたちと焼き肉屋に行き、卒業生の思い
出話を聞く。
風呂で話し込むこともある。
脇浜は、敗れても悔しさがうかがえない最近の部員たちを嘆き、
「このくそジジイと思ってきよるような奴(やつ)がおらんようになった」
とつぶやいた。
翌年、20人の新入部員のうち残ったのはたった1人。
脇浜が目にかけ、後藤も期待していた3人の上級生たちも示し合わせ
たように姿を見せなくなっていた。
創部以来の「ドン底」といっていい年、脇浜は後藤に弱音を吐いた。
「何年たっても、同じことを繰り返して、同じように裏切られて、アホ
ウなことしてますわ」
同年代の若者たちはバイクに乗り、酒を呑(の)み、恋人と遊んでい
る。
遅くまで練習するストイックな日々から目を反らした瞬間、緊張の糸
がぷつりと切れることもあるだろう。
取材は個々の部員の家庭事情には踏みこんでいないが、脇浜には、彼
らが何に悩み、何に苦しんでいるか、手に取るようにわかっているよう
だった。
誰かに責任を押しつけ、自分の意志の弱さを直視できない。
それは、かつての自分自身だったからだ。
それでも、一度はボクシングを楽しいと実感した者たちである。
あばら骨にひびが入っても全身でボディー打ちを受けとめる脇浜の必
死な姿を見守ってきた後藤は、生徒の自宅を訪ねて置き手紙を残したり、
校内で姿を見つけると声をかけて食堂に誘ってみたりして、なんとか彼
らの真意を探ろうとした。
そんなある日、将来を期待されながらも彼女ができたといって姿を消
したある生徒が、目に涙をためながら後藤にいった。
「脇浜先生を恨んでなんかいない。いい人だっていうことはわかってる。
わかってるんよ。だから、卒業前にね、行く。ありがとうございまし
たっていうから。……先生は強い。みんな、先生みたいに強くない。強
くないんよ-」
授業なんて出なくていいからボクシングやれ-。
そうまでして、勝つ喜びと、敗北を糧に新たに踏み出す強さを教えよ
うとした脇浜の思いが空回りしている。
部員たちに去られた脇浜は深く傷ついていたが、部を去った彼らもま
た、痛みを抱えていたのである。
後藤が会った部員たちは、70年代半ば生まれ。のちにIT起業家や
ITエンジニアが輩出する「ナナロク世代」である。
脇浜の指導法が時代からずれていくのは、もはや、致し方のないこと
だろう。
教師も同様だ。
脇浜の周りには、脇浜曰(いわ)く、「生徒の個性に応じた多様性あ
る教育とかぬか」し、教育心理学を掲げながら、生硬な言葉で公式論を
ぶつ若い教師たちが増えていた。
時代は確実に変わり始めていた。
では、後藤は脇浜に仮託し、かつての「金八先生」のような体当たり
指導の復活を望んだのだろうか。
原稿を待つ編集者の催促を背に受けながら、あともう少し、あともう
少しと取材を続け、西高が3人の部員を送り込んだ全国大会にまで同行
した。
それは、言葉ではなく裸でぶつかり合う「今の世には希(まれ)な場
所」へのノスタルジーだったのだろうか。
実際のところ、後藤自身、この変化をどう受けとめればいいのかわか
らず、脇浜の指導法に対しても、〈過剰な評価は滑稽であるし、過小な
評価もまた誤りであろう〉と記している。若い教師たちについても批判
はせず、いずれ彼らも現実の中で鍛えられて成長していくのだろうと理
解を示している。
ああ、そう考えるよりほかはないですよね、と私は思う。
時代の伴走者として、移りゆく景色を見つめ、人々の内面に寄り添っ
てきたノンフィクション作家は、抗(あらが)うことのできない時間の
流れの中に両足を踏ん張って立ち、それでも不変と信じるものだけを両
手ですくい上げることしかできないのである。
脇浜のもとからは、その後、世界チャンピオンも誕生した。
定年退職した今も、熱血先生を慕う卒業生は多いと聞く。
ただ、そんな交わりをもてずにすれ違っていった者たちにとっても、
脇浜との出会いはなんらかの〈契機〉となり、なにかを胸に刻んだこと
だろう。
人と人の関係に普遍的で確かなもの、時の洗礼を受けても変わらない
ものがある。
後藤はこれを灰の中の火種にたとえ、次のように書いた。
<脇浜が生徒たちに残したものは、小さな《埋み火》ではなかったか。
いま振り返ってそう思う>(文庫版あとがき)。
後藤が脇浜たちを取材したのは、40代後半の3年間だった。
それから20年を経た今、当時の後藤とほぼ同じ年齢になった私の目
に、西高ボクシング部の物語はあまりに切なく愛しく映った。
これを人は、「青春」と呼んできたのだろう。
私たちがつくる未来がこれからも敗者復活を認める社会である限り、
本書はいつまでも輝きを保ち続けるだろう。
☆「日本史の授業2 天皇論」井沢元彦 PHP 2012年 ②【再掲載 2017.7】

[出版社の案内]
天皇の魂はなぜ復活してはいけないのか?
徳川家康はなぜ日光東照宮を築いたのか?
歴史 の真実を知る12講義。
冴え渡る井沢史観で天皇と歴史の謎を解き明かす。
◎テーマ3 天皇陵から分かる日本人の死生観
□日本古代史の謎がなかなか解けない理由
宮内庁の反対
→ 文化財か天皇家の私物か?
「陵墓参考地」
→ 宮内庁の自信のなさ
箸墓古墳も同
□天皇陵として正しいのは約50のうち3つのみ?
□世界でも珍しい墓誌のない墓
□天皇の魂は復活してはいけない
人間は死んだら黄泉の国へ
ピラミッドは王様の魂を再生させる装置
□なぜ日本人は死後の復活を恐れたのか
「怨霊信仰」
- 成功すると「御霊」いい神さまに
仏教
= いかにして仏になるか
小乗仏教
→ 上座部仏教
□成仏できないときは怨霊となる
仏教 ~ 怨霊鎮魂の一つの手段
□家康が仕掛けた洗脳
「銭は卑しい」観
本能寺の変
→ 朱子学(君主に背くことは絶対悪)
□家康が恐れたのは天皇の怨霊
松平 → 徳川
徳川は新田氏の支流の末裔だったから
日本では、外国ではあり得ない朝幕併存の方へ導いたのも実は怨霊
信仰
天皇という最も高貴な存在を滅ぼせば間違いなく巨大な怨霊を生む
◇朝幕併存
= 二権分立の謎を解く
◎テーマ4 天皇と藤原氏の争いが武士を誕生させた
□「武士」は中国にはない
天皇家と藤原氏の双方がともに武力を手放してしまった
夷(えびす)
軍団 → 征夷大将軍
□武力を放棄してしまった天皇家と藤原家
二代将軍・坂上田村麻呂(貴族の一人 一役職)
北海道を征服しなかったのは稲作ができなかったから
外敵がいなくなった時点で軍隊そのものをなくしてしまった
(ケガレを嫌う)
□藤原氏が考え出した脱税システム 土地所有権
荘園は藤原氏が考えた脱税システム
放棄口分田
→ 自分の所有地に
□映画「羅生門」で分かる
① 国庫には首都の正門を修理するお金がない
② 警察機能が働いていない
行政組織上は国軍は存在しているのに、実態としての軍隊
がない
□「平和になれば軍隊は必要ない」は大きな過ちとなる
□平安時代中期は無法地帯
ケガレ思想から兵部省・刑部省には希望者無し
→ 藤原氏は「検非違使」をつくる 令里の行
下級官でもなれる
□藤原氏に敗れた貴族は国司とって権力を握った
出世が望めない中級貴族にとってとは国司はおいしい仕事
4~6年で充分な財産(ワイロ合戦)
□藤原氏に対抗する天皇家の秘策
藤原氏は「関白」地位を作る
準皇族扱い
- 天皇の地位を奪った
→ 「五摂家」近衛・鷹司・九条・二条・一条
天皇は自分の息子や孫をわざと臣下に落とす
「臣籍降下」
源 平 ~ 姓を与えた
◎ 天皇は藤原氏に対抗するために、皇族の男子を臣籍降下させて
大臣に任命した
→ 策は当たり、源氏は一時期、藤原氏のライバルとして政権
を争った
しかし、破れた → 力落として
□武装農民が大量に発生した理由とは?
中央での出世の望みが絶たれた中流貴族が地方に土着し、財産を守
るため武技を磨いた結果誕生したのが武士
→ やがて集団化 武装集団+生産集団
当時の国有地は1/100
天皇まで荘園をもつようになった
この記事へのコメント
難しいです、コメント無しで (_ _)
個人的にはこれからの天皇家の姿をもっと議論してほしいと思ってます。
後藤正治のノンフィクション作品ですが「無名の人々を描いた人物モノ」から「医療モノ」と幅広いですね。「リターンマッチ」ですが、ボクシング部に密着し、普遍的なモノを体感かな?面白そうです!?(=^・ェ・^=)
いまどぎ、こんな部活はないですよね。
大好きな本になりました。
いろいろな考えがあることですね。
ノンフィクションの作品が好きでよく読みます。
本気にさせる、その力を感じました。
どこを見て話せばよいか考えながら会話するものですから、ぎこちなくなってしまうことがしばしばあります。